保守論壇の大御所・中西輝政氏と朝鮮半島問題のスペシャリスト・西岡力氏が我が国をめぐる国際関係史を読み解き、我々にとって本当に必要な歴史認識とは何かを示した『なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか』。

先日公開した前編に引き続き、同書二章の「なぜ日本は戦争に負けたのか」のなかから、「昭和が支払わされた大正のツケ」を抜粋してご紹介します。

世界史の転換点となった第1次世界大戦

(前編より)

西岡 いまのお話で気づいたんですが、たしかに日本の歩みは明治・大正・昭和という連続性のなかでとらえるべきだとは思いますが、世界史、あるいは人類史的な規模で歴史の流れを見つめ直すとき、大正時代には見逃せない画期がありますね。1914(大正3)年から18(大正7)年にかけて行なわれた第1次世界大戦です。

それまでの戦争には、かろうじて騎士道精神が残っていましたね。戦争を疑問視するという思想もなかった。そして、植民地支配についても、文明国には非文明国を支配して文明化する義務があるんだ、という考え方が主流でした。そういう風潮のなかで、日本はまさに「文明化」されそうになった。

しかし、福澤諭吉が『学問のすすめ』で「一身独立して一国独立する」と書いたように、日本は欧米列強の植民地にされることを拒否して、自ら文明国になるんだといって富国強兵政策をとったわけです。

ところが、第1次世界大戦の結果、とくにヨーロッパにおいてそれまでの戦争とは比べものにならないくらい大きな被害が生じて、軍人だけじゃなく、軍服を着ていない国民も戦争によって「ひどい目にあわされた」という感覚をもつ時代になりました。

※連合国と枢軸国の合計で、戦死者802万人、負傷者2122万人、民間人死者664万人が犠牲になったといわれている。


それまでの戦争は、職業軍人がやっていたわけです。あるいは傭兵がやっていた。日露戦争でも、たしかにわが子や兄弟が徴兵されて小さな村からも出征していきましたが、あくまで軍人同士の戦争でした。ところが、第1次世界大戦によって、人類は戦争が容赦のない破壊と殺戮をもたらすことを初めて実感させられたわけです。そのことは、文明史上、非常に大きな転換点だったと思います。

中西 まったく、そのとおりですね。

西岡 そして、まさにその世界大戦中にロシア革命が起きて、ソ連という共産主義国家が成立しました。

共産主義国家の通弊ですが、ソ連もいっていることとやっていることが違いますから、彼らは世界革命をめざすといいながら、一方では民族自決という方針も掲げていて、自分たちこそ世界中の非抑圧民族の味方なんだ、というフィクションを宣伝した。実態は、ソ連中心の世界秩序をつくろうとしていただけですが……。

そういう宣伝を通じて、非抑圧民族には民族自決の権利がある、それまでの「文明国が非文明国を文明化する義務」という論理は間違っているんだということを世界中に向けて発信していきますね。そういう動きも相まって、大正時代から戦争に対する懐疑的なとらえ方が増幅されていったように思います。

そうして世界史が大きく動いていくなかで、日本はどんなふうに国家をマネジメントしなければならなかったのか。それから十数年後の第2次世界大戦で、結果的に日本は負けましたから、当然、マネジメントに失敗した面もあっただろう、というのが戦後の歴史観であって、当時の日本を「新しい国際秩序」に対する「挑戦者」であったと規定したがります。