人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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備中高松城主清水宗治のその後

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2014/07/28 10:32

7月27日の大河ドラマ「軍師官兵衛」は中国大返し。黒田官兵衛最大の見どころであり、また戦国時代を終結させるターニングポイントでもあった。
この乾坤一擲の大ばくちに成功した秀吉が天下取りを果たしたのは有名だが、切腹した備中高松城主の清水宗治のその後を知る人は少ない。

高松城主の清水宗治はこのとき46歳(数え年)。秀吉との講和が成立すると、兄の月清入道や家臣2人とともに人造湖に浮かぶ舟の上で切腹した。
その後、宗治の二男景治は毛利一族の小早川隆景に仕えた。景治の「景」の字は、隆景から与えられたものである。隆景の没後は毛利本家に移り、江戸時代は長州藩の重臣として2500石余を知行している。

以後、代々清水家は長州藩の重臣として続き、幕末の当主親知(清太郎)は弱冠22歳で長州藩の国元加判役(家老)に就任。しかし、禁門の変で敗れたことから藩命で切腹した。その後、正義派が藩政を握ると養父の親春(美作)が再び家督を継いで復帰、以後家老や第二騎兵隊総督となるなど活躍した。そして、その功によって明治33年に孫の資治が男爵を授けられ、清水家は華族となった。

なお、資治の跡は伊藤博文の孫の博春が養子となって継いでいる。

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