人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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荒川城と荒川氏

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2014/04/14 13:48

西尾市の平野にぽっかりと浮かぶ八ツ面山。みるからに城を築くには最適と思われるこの場所には、戦国時代には当然荒川城という城があった。城主は荒川氏である。

ただし、城は山頂ではなく、北側のふもと、今の八ツ面山小学校のあたりにあったようだ。この付近は土井といい、これは土居(城の周りの土盛りの土塁)に由来する地名だろう。

荒川氏の祖は吉良氏と同じく、清和源氏で足利将軍家の一族。足利一族である戸ヶ崎氏の庶流が荒川氏を称してこの城に拠り、のちに東条吉良氏の吉良持清の二男義広がその名跡を継いて荒川甲斐守義広(頼持)となった。

義広は徳川家康に属したが、三河の一向一揆の際に一揆方に属して家康に叛いたため、鎮圧後河内国に逃れたという。そして、そのまま河内国で病死したと伝えるが、没年は定かではない。

八ツ面山の麓には、久麻久(くまく)神社という由緒ある神社が鎮座している。この分社が八ツ面山の南西200mほどの小高いところにあり、その隣の真成寺には、「八ツ面山城主 荒川甲斐守義広公之墓」と刻まれた荒川義広の墓がある。



久麻久(くまく)神社。分社のため二座となっている



荒川義広の墓


なお、義広の子どもは後に家康によって召し出され、子孫は尾張藩士となっている。

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