人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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浅井氏の出自について

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2011/01/17 09:08

前回について大河ドラマ「江」について。

江の父浅井長政は、北近江の戦国大名であった。「浅井氏系図」では、藤原北家の公家三条公綱の末裔とあり、これをもとに藤原姓と記載してある資料もある。

この三条公綱とは、三条実美などの出た清華家(五摂家に次ぐ家柄)の三条家ではなく、明治以降は「嵯峨」と改姓した大臣家の正親町三条(おおぎまちさんじょう)家のこと。

この一族の公綱が天皇のとがめを受けて近江守護の京極氏に預けられ、近江国浅井郡丁野村(滋賀県長浜市)に蟄居していたときに、地元の娘との間に重政をもうけた。公綱はのちに京に戻ったが、重政はそのまま近江に留まって「浅井」と名乗り、浅井氏の祖になったとしている。

しかし、これには全く根拠はなく、地方の名家によく見られる貴種落胤譚の1つである。

通常、貴族や大名の末裔であれば、正しい系図などに記載されているはずだ。そこで、なんらかの事情で一時期地方に暮らしていた公家や大名などと、地元の娘の間に生まれた子どもが、そのままその地に住みついて一族の祖となった、というもので、上は浅井氏のような大名から、下は庄屋といったクラスまで、こうした落胤譚は各地にある。

もちろん、これらの落胤伝説には、真実といえるものはほとんどない。これらは、その土地の支配者であることには歴史的な理由がある、ということを強調するために創作されたものなのだ。

近江の京極氏の場合も、祖とされる重政以前から同地に浅井と名乗る一族があり、おそらくこの地に古くから住む土豪の末裔だろう。室町時代に丁野郷の国人として台頭し、代々近江守護だった京極氏に仕えていたとみられている。

そもそも浅井氏は、浅井長政の祖父亮政以前のことはよくわからない。実力がすべてだったと思われがちな戦国時代でも、やはり政治的にはある程度の出自は必要だったのだろう。
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